美川校下の歴史

〔美川に県庁があった〕

 明治4年の廃藩置県により、明治5年2月、内田政風は県庁を金沢から美川に移しました。この時、県名も「美川県」に変更するよう申し出ています。

 

 美川は藩政期より北前船の寄港地として賑わい、財をなした豪商が多く住んでいた港町でした。

 

 手取川両岸の石川郡本吉町と能美郡湊村が合併したことから、能美郡の「美」と石川郡の「川」をとって「美川」とつけられました。新しい県名は、県庁所在地の「石川郡」から「石川県」となり、以後「金沢県」とはなりませんでした。

 

 石川県庁は、明治6年1月に再び金沢へと戻り、美川に県庁がおかれた期間は短いものでした。

 

 美川は、石川県内で太陽暦を最初に使った町であり、遊郭の免許地第1号、郵便局の開設や小学校の開校も明治5年と早く進んだ地域であり、美川小学校は2022年(令和4年)創立150周年になります。

 

 

〔美川おかえり祭り 石川県無形民俗文化財〕

 おかえり祭りが行われるようになったのは、北前船で栄えた江戸中期、文化文政年間(1804~1830年頃)、今から約220年ほど前の頃ではないかと言われています。

 

 北前船で美川が繁栄を極めた江戸時代の中期、美川の氏神である藤塚神社の春季例大祭として「おかえり祭り」が始まりました。13台の台車(だいぐるま)は、美川仏壇の技術を使い漆や蒔絵で彩られ、勇壮な姿は見る人を圧倒します。若者の吹くラッパに先導される神輿は町内を練り歩き、高浜の御旅所まで全部の町内を渡御(とぎょう)します。御旅所で一泊し次の日の夜、10年に一度のおかえり筋の町内を通って藤塚神社に帰ります。

 

 藤塚神社を出て、御旅所で一泊し次の日、藤塚神社に帰ることから、以前は「美川のお旅祭り」とか「春祭り」と呼ばれたこともありますが、現在は「おかえり祭り」と言われるようになりました。